小銃

拳銃

銃剣

携帯用兵器

装具

狙撃銃と照準眼鏡

教練制度と機材

信号銃

通信用具

バンザイシュート報告


新発見(軍装操典より)

騎兵銃用弾薬盒
銃剣差し初期型
小銃用負い革・負い紐
革帯の真贋
小銃用負い帯
四四式さく杖
二六式ホルスター
義烈隊用の手榴弾収容嚢

BANZAI」シュートアウト

アメリカでは5月の終わりに戦没者を奉る「メモリアル・デー」の休日がある。この休日の性格上、様々な軍事的なイベントが全国各地で実施される。日本軍の軍装・兵器の収集・研究家の間では毎年、アラバマ州のブレビンズ氏の家で「バンザイ」シュートアウトと言うイベントが行われ、30-40人のメンバーが集合する。
私自身、「バンザイ」の会員になり10年以上、過去3回このイベントに参加しすでに多くの人達とは顔なじみの間柄になっている。「日本の軍用銃と装具」の執筆に彼等の協力は無くてはならぬものであった。ここでは普段は出来ない様々な日本の兵器の実射を体験した。今までに村田十三・十八年式・三八式、九九式の各種小銃、各種拳銃、各種軽機関銃の実射はもとより、一〇〇式短機関銃、擲弾筒、擲弾器などを借用して、また実包も用意して貰い研究を拡大することが出来た。

■アメリカにおける「日本軍」愛好者
アメリカはいろんな国から来た人達で構成されている国であり、恐らく自国以外の文化や歴史の研究では世界で一番多種のものに挑戦し、またよく実施されている。
正直言って日本軍のものはマイナーである。しかし大戦後半世紀を経過した現在、その規模は拡大もしてないが縮小もしていない不思議な存在である。「バンザイ」は月刊の研究誌でドス・ホワイト氏が主幹、約600人の会員が全国的にいる。この他に各地方に小規模なグループが幾つかあり、日本軍の研究家と言われる人達だけで私は1000人とみている。またコレクターに関しては日本でも有名なオークションハウスの「マニオン」の日本軍の部のみで3000人いるので、全体で1-2万人の規模であろう。


研究家は私のように全てのアイテムに関して、その背景や数量を捉えるような手法で行っている者は少ない。多分、日本語による情報の取り方に問題があったのであろう。
しかし、個々の兵器に関してその分類や特徴の捕らえ方、性能に関する研究は実物を手軽に見れる、実射できるので、とても日本では出来ない水準にまで進んでいる。また自国、その他の国の物との比較も公平に行われている。兵器であるという認識のもと、単なる遊び的に実射して軽々しく日本のものは「奇怪だ」「良くない」 というような素人的な批判はあまり聞かれないし、このような態度は研究家内でも相手にされてないように思 える。
大戦後の一時期、NRA(アメリカライフル協会)の機関誌「アメリカン・ライフルマン」に日本・ドイツの小火器系のレポートがよく掲載された。アメリカ及び英国の研究はすでに、小銃、拳銃、銃剣、その他の軍用刀剣などが出版物として存在し、現在、機関銃、訓練用小銃、実包、大砲に関する研究の出版が計画されており、筆者もそれらの研究者に出来る限りの協力を惜しんでいない。


私が3年前にドス・ホワイト氏に頼まれて執筆した英語の「中国戦線の日本兵」は1930年代の日本軍の兵器・装具を当時の東京日々新聞社の写真で見せるというもので、まさに彼らの研究を大いに助けていると確信している。アメリカに在住する日本人の研究家は、私の知る限り、吉田四郎、葉山泰彦、中川和人の各氏であり、それぞれに自分の分野と日本人としての観点を持ち尊敬できる水準に達した方々である。
「バンザイ」シュートアウトはこのような研究家、収集家、その関係者及び野次馬も含め毎年銃規制の比較的楽なアラバマに集合し、各々持ち寄った物を実験し、情報を交換する最良の機会となっているのである。 毎年、私はいろいろなテーマに関して彼らの協力をお願いし、今までその期待を裏切られたことは無かったが、本年は以下のテーマに関して実射を含めた研究を行ったのでその一端を皆さんに報告したい。


A. 村田二十二年式連発銃の実射
B. 日本が幕末に輸入した初期の後装式小銃の実験
C. 九二式重機関銃の実射
D. 十四年式と九四式拳銃の命中率の比較
E. 訓練用小銃に関する情報


などであった。ブレビンズ氏の家はアラバマ州の北部に位置し、私の住むニューヨークからは片道約1300キロ、車で14時間掛かる。しかし、自分でも実験する銃器や機材、撮影のものを持参しなければならないので、自分でこの距離を運転して行く。
ブレビンズ氏は近隣のスクールバスを配送する業務を経営しているが、その地所はどのくらいあるか分からぬ広さで、その一角が射場として使われる。参加者は彼の家に泊まる者、庭でキャンプする者様々である。


■幻の小銃村田二十二年式は当時の新しいコンセプトを採用した名銃であった
恐らく戦後50年間で私がこの銃を実射した数少ない研究者であり、日本人としては唯一の射手であろう。この銃は数も少ないが、何よりもその実包が存在しない。 この8ミリ実包は特殊なもので他国のいかなる実包とも互換性がなく、また製作することも出来なかったのだ。村田二十二年式(1889)は、その前に存在した11ミリ単発の村田十三年式、十八年式に引き続いて村田少佐の開発による日本軍の制式小銃であるが、実戦に使用された機会があまりなく、20世紀にかけての北清事変(1900)で欧米各国軍と中国北部に共同出兵された数千の日本軍が装備していた。
従来より小型の小銃であり、思い切った小型の銃剣を装着する。それまでの黒色火薬でなく、開発されたばかりの無煙火薬を採用、口径を小さくし、連発式とした。
銃剣は世界で始めて銃身の下部に装着できるものとし、銃身の真ん中に握部があり、小型小銃、小型銃剣ながら、時代遅れの大型の打ち物に対抗するに、敵の懐に飛び込む形で体格的に劣る 日本兵の敏捷さでこれを倒すという日本的なコンセプトを明解に出している。この点はこの銃を見たアメリカ前装銃協会会長のマルソン氏も直ちに指摘したことで、その後の日本の銃剣術確立の第一歩がここにあった。
さてこの実包はやはり会員のビンセント・ダイナルディ氏に製作を依頼してあった。同氏は実包の研究家であり、実物の8ミリ実包を見ずに、薬室と遊底底部の寸法を測り寸法をだし、他の薬夾を一つ一つ改造することにより製作してくれたのだ。勿論無煙火薬を装薬としている。
この8ミリ実包の薬夾の底部は薄い縁があり(リムド)で、弾丸は長くその先は4ミリほど平たく銅で装甲された特殊な、手間の掛かったものである。これはライフルを4条メトフォードとしたためで、当時としては画期的な設計であった。連発機構は銃身の下部に管状の弾倉があり、遊底を開けて一発づつ押し込む方式である。銃床は後の日本の軍用銃の特色となった合わせ銃床である。


今まで、日本では銃の構造が複雑であるがたいした銃でないという評価がなされていたようだし、なによりも実際に見たことも、発射されたこともなかった。
実験の結果から言うと、当時の軍用銃としては考えられない精度、命中率を示した。
とにかく貴重な実包なので、8発しか発射出来なかった。100メーターの距離で最初の2発が真ん中より5センチばかり落ちた。横のダイナルディ氏を見ると、「少し弱装にした。」との合図。黒点の上に合わし残りの6発を撃つ。なんとそのグルーピングは5センチくらいにまとまる。これは三八式に匹敵する精度である。今回製作して貰った弾丸は先が尖ったものであったので、弾倉には一発しか込められなかったが、装槙は思ったよりも楽である。実物の弾丸の先が平たいのは前の実包の雷管を打たないためである。後の連発銃に比べると、この装置は複雑で、デリケートなものであることは否めない。しかしこれは火縄銃の時代から30年もたたずしてのテクノロジーなのである。今の感覚で批評は出来ぬ。
弾倉には7発収まるが、うまく入れないと時間が掛かる。しかし当時の戦闘を想定するに、遭遇した敵に対してとりあえずはこれ以上の弾数は発射することは無く、すぐに白兵戦に持ち込んだに違いない。一人の兵の携行弾数は60発程度であった。実包は15発づつ紙箱に入れられ二つの前盒を使用していた。 弾倉は銃床を火縄銃のサク杖を入れる穴のように先から元まで長く掘られて、そこに真鍮製もしくは薄い鉄板のパイプが入れられて、内部に先からコイルスプリングが付けられている。非常に手の掛かった工作である。さく杖は短いものが一本、銃床の中に入っており、何人かでつなぎ合わせて使うという新しい発想であった。
連続番号から推定するに約15万挺が東京工廠の小銃製作所で生産された。


筆者の村田二十二年式小銃は初期の生産で、「廃」の文字が尾筒の上に、銃床に「仙台工業高等学校」の焼き印が押されている。この同じ焼き印の銃は知る限り、アメリカには数挺存在している。銃の程度からみると野外の教練に長い期間使用されていたものとは思えない。技術の実習に使われていたのかも知れない。いい銃である。 まさに名銃の名にふさわしい性能と作りであることが今回の実射で証明された。

■九二式重機関銃は日本の機械技術の真骨頂
アメリカには日本の機関銃マニアは多い。しかし最近連邦政府の自動火器に対する規制がかなり強くなり、半世紀以上前のものとはいえ、第二次大戦のこの種の兵器も、撃てないようにした物も含めATF(連邦政府の武器も含む管理機関)のライセンスが必要である。従って軽機関銃でも射撃可能なものを所持するのはなかなか大変なことである。ましてや重機関銃になると、所持はもとより、射撃をするのはたやすいことではない。
今回のイベントにはジョージア州のブリット・アボット氏が幼い息子二人と、九二式重機(1931)を持参して参加したのであった。車の故障で夜半過ぎに到着した同氏は同夜は床の上に寝ていた。 翌日、筆者に重機の設置場所を尋ね、そこに車を付けると、まずトランクから三脚架を出し、その上に機関銃本体を置き、いとも簡単に組み立てる。銃は28キログラム、三脚架は27キログラムあるはずだ。九六式4倍スコープを装着する。5分間も掛からない時間でこれを行った。この重機は全長が116センチあり、2-4人の兵士が分解せずに運搬出来るところに特徴があった。
当日、1回休み2回に分けて900発の射撃を行った。使用した実包は、保弾板はオリジナルのものであるが、新しく製作したものであった。保弾板に30発づつの実包が載っている。この重機は当初7.7ミリのセミ・リムド(縁がやや出ている)を使用し、後には九九式小銃、軽機と同じリムレスの実包も使用した。どちらでも使える。日本が九二式のもとになった三年式重機(口径6.5ミリ)でこの方式を採用したのは日露戦争の際にフランスからホチキス式の機関銃を輸入したことに影響されたと言う。保弾板は装槙・回転を確実にしてまたこれを差し込むことにより、機械的に機関部が撃発状態になる仕組みである。この銃はベルトは使わない。
この900発の射撃で不発は1回のみで後はすべて順調に発射された。
筆者自身も数回射撃した。100メーター距離で30センチ角の標的を狙う。なんと30発の内26発が命中している。小銃並の命中率だ。また当日は気温が37度まで上がったが空冷のこの機関銃はまったくびくともしない。


命中率の高いのは、設計の良い、しっかりした作りの三脚架のせいが大きいと思う。反動というものがほとんど吸収されてしまうのだ。だからスコープに顔を付けていても打つことがない。このくらい強い実包だと、他の機関銃の場合はこうはいかない。押さえているだけで大変である。
瓢箪型の「押し鉄」の具合も良い。手袋をしていても、同じように操作できる設計である。命中率の良いもうひとつの理由は発射速度が遅くに、調節できる点である。当日は分間400発くらいにまでも落としたがまるで円滑であった。機関銃の発射速度は早くするとわりに問題は少ない。遅くするほうが難しい。遅い速度で撃つと 特徴のある音がする。この特徴のある音をアメリカ兵「キツツキ」と呼び、この重機関銃の位置を警戒した。
この銃は「日立」の製作であるが、材料、工作、仕上げどれをとっても日本の機械工作の真骨頂を示している と言える素晴らしい兵器である。 第二次大戦後、もし兵器輸出が許されていたらこの機関銃は世界のヒット商品になったはずだ。ちなみに中国大陸に残された九二式重機は15000挺くらいあり、国共の内戦、朝鮮戦争、最近まで使われていた。
兵器の開発と生産には技術の底辺の広い基盤が要求される。このような優秀な兵器は一日にして出来ること はない。 なお実包も良かったが、これはアボット氏が、実物の保弾板と弾丸を使い、アメリカの30.06の薬夾を改造し製作したもので49グレインズの火薬を入れてある。手間が掛かっている。


■明治政府になぜスナイドル式が選ばれたかが分かった
幕末に数十種、数十万挺の洋式銃が日本に輸入されたと言う。1870年頃、明治政府はその中より、スナイドル式を統一された小銃と選定し、前装式小銃もこれに改造し、また実包の製作機械を輸入した。当時スナイドル式に換えられる小銃が一番多く存在したとは言え、この頃の後装式小銃を試してみてなぜ、スナイドル式が選ばれたかその理由が納得できた。スナイドル式銃は

1. まず装填、排夾が楽である。
2. 頑丈である。
3. 有鶏頭は使い易く、安全性が高い。
などの理由であろうと推察した。

今回はフランス製のシャスポー銃、英国製のスナイドル銃、同じく英国製のヘンリー・マルティーニ銃の3種を、やはりダイナルディ氏の製作による実包で実射した。各々の発射弾数は6から8発と多くはないが特に装填、撃発、排夾の操作性がよく理解できた。命中率はあまり変わりはなく、50メーターで8-10センチくらいのまとまりであった。これらの小銃は1865年くらいから5年間くらいの期間に開発、生産されたもので、完全なボルト式の後装銃ができるもでの転換期の方式である。いずれも口径は11ミリ。

 

1)シャスポー銃
フランスのシャスポー、ドイツのドライゼ、いずれも10センチくらいの長い撃針の先が実包の中に入り、弾丸の底に付けられた雷管を撃つ。火薬の部分は絹など布で構成されている。一番の問題は撃針が絶えず火薬が燃焼する中にあるということで、この太さ2ミリの撃針が壊れ易い。オリジナルのものはほとんどが先の部分が欠落している。 また装填には、まず撃発状態にする撃鉄を引き、それからボルトを開けるが、これら二つの部分が直列に付いているので、扱い難い。ボルトの感じは一番近代銃に近いがパッキングにゴムを使っており、これが熱で変質したり、ボルトを開け難くするという機構上の問題が二点ある。雷管の位置が遠いということは撃発の確実性が落ちるし、不発の場合の安全性も問題がある。また発射後、布の薬夾は完全に燃えず、銃身の中に残る。発射後、これを確認する必要がある。1865年にナポレオン三世が徳川慶喜将軍に2000挺贈ったことで有名であるが、日本で活躍の機会はなかったのであろうか。 小銃としては画期的なものであったことに間違いない。


2)スナイドル銃
もともとは前装のエンフィールド・ミニエー式のライフル小銃が、当然のことながら、ライフルのために装槙し辛かったので、開発された方式で有鶏頭と言われる撃鉄が外部に出ている。銃身の尾部が横・上に開けられて、そこから薬室に実包を押し込み尾部を元に戻すと固定される。実包は最初は厚紙の薬夾、後に真鍮の金属薬夾になった。いずれも雷管は近代のもののように薬夾底部中央に位置しており、撃鉄が尾部の開閉部にある撃針を打つことで撃発する。この方式は装填が楽である。排夾も尾部の一部が前から後ろへ稼働するようになっており、簡単なエクストラクターがあり楽である。実包を装填したままにしておいても、撃鉄を下ろしておく、もしくはハーフコックの状態にしておけば安全である。 なによりも、この方式は頑丈であり、万が一にも開閉部が後ろに飛ぶことは無い。もともと後装式に作られたスナイドル方式に加え、多くの前装のエンフィールド・ミニエー銃が改造され、統一された。なお開閉部が横でなく、前・上に開くアルビーニ式も存在したが基本的には同じで、日本では同じ実包を使用したのであろう。明治初期、日本でスナイドル・アルビーニ式は18万挺くらい使われたと言われている。

3)ヘンリー・マルティーニ銃
この銃は時代的には一番新しい。特徴はレバーで尾部を開け閉めする。金属薬夾を使う。銃床下部のレバーを前に下げると、尾部が下に開く、薬室に実包を込める、すでに撃鉄もレバーの操作で上がっている。レバーを戻し尾部を閉じる。従って単発の操作としては一番簡単である。1871年に英国で採用された。この方式も過渡期のものであったのは、やはり軍用銃にレバー機構は耐久性に問題があったからであろう。日本ではアメリカでライセンス生産したピーボディ・マルティーニ銃が海軍で明治の初期使われていた。

このすぐ後に出た村田十三年式をこれらの方式の小銃を比べてみると、村田はいかに短時間で完成度の高い軍用ボルトアクション銃を完成したかを実感できる。村田十三年式も同じ11ミリ口径であるが命中率ははるかに高い。


■九四式拳銃は優れた軍用ポケット拳銃である
九四式(1934)拳銃に関しては初めから終わりまで良く書かれたものはほとんどない。果たして本当に「奇怪」で「くだらない」設計であったのであろうか。「あなたの腕が悪いので当たらないのでしょう。」筆者は何度もこの拳銃のレポートに関しては疑問を持っていた。今回私が行った「仕掛け」は十四年式(1925)と九四式の二つのカテゴリーで射撃競技を実施することであった。距離も同じ、標的も同じ、実包も同じ、発射弾数も同じにして上位何人かの平均をとれば、この2種の拳銃の比較が出来る。十四年式はもとより工作が良く、命中率も射的銃並に良いという評判の拳銃である。日本から鎧、兜、刀のミニチュアなどの賞品を運びこれらを優勝者に提供した。参加者は各々10名強で、そのうち、7名が両方の競技に参加してくれた。距離は15メーターで小さいピストル標的(10点部分は直径4センチ)を使い、5発競技(満点は50点)。NRA(アメリカライフル協会)の審判員にも来て貰う。その結果、驚くことに上位3名の平均スコアは、十四年式は36点、九四式は33点なのであった。しかも回転不良は十四年式 に2回あったのに対し九四式は零であった。今回使われたほとんどの九四式拳銃は昭和12年から14年にか けて作られた初期のものであった。次回は距離を25ヤードに伸ばしものに挑戦してみたい。使用実包はアメ リカ製の最近のもの。

見ていると、日本の拳銃の問題は回転不良とか命中率ではなくて、なんと弾倉への実包の挿入であった。確かに現代の自動拳銃の弾倉の設計・工作に比べると日本の拳銃は8ミリ実包の形状、傾斜、バネなど指の太いアメリカ人には手こずる要素がある。何度も言っているが、九四式拳銃は薄く作ることを目的にした設計である。工作も良く、従って回転も良い、命中率も悪くない。南部麒次郎氏の名誉に掛けてこれらは言える。残念ながら今までのテストは射手の腕が悪かったか、終戦直後の一部の評論をまるのみにしたとしか言いようがない。